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昔懐かしい「紙風船」や
「柳行李」の思い出…。
日本全国で愛されてきた
越中富山の薬売りと配置 薬の世界をご紹介します。
配置薬の昭和レトロ堂:売薬昔語り 報恩碑の主になった薬売り・青木伝次さん
   

◆報恩碑(酬恩碑)が建てられた薬売り
  「青木伝次(あおきでんじ)」さん

形県米沢市、県道沿いにある薬師堂の境内に、その報恩碑はあります。恩に感謝するという意味をもつ、その碑が称えているのは、いわゆる著名人ではありません。
そこに刻まれているのは、「青木伝次(あおきでんじ)」という、一人の薬売りに対する地元の人々の感謝の気持ちでした。

配置薬の昭和レトロ堂:在りし日の青木伝次さん
  私財を投じて東北の農業の発展につくした青木伝次さんとは、一体どんな人物だったのでしょうか。
   
 
配置薬の昭和レトロ堂:福井町上町の薬師堂。青木伝次さんの碑は右端にある。
塩井町塩野の薬師堂。青木伝次さんの碑は右端にあります。

木さんは、慶應元年(1864年)、富山県上新川郡の農家の長男に生まれました。
明治30年、32歳の時に、売薬さんとして方々を回る配置業に従事することになったことから、東北地方にもたびたび足を伸ばすようになります。

ある時、売薬として塩野村を訪れた青木さんは、備中鍬を使った人力による過酷な農作業を目の当たりにします。

 
 
時、この地方にはまだ馬を使って田を起こす機具がなく、人々は人力での農作業を強いられていました。
そんな農民の姿を見て、持ち前の義侠心にかられた青木さんは、ついに私財を投げ打って、越中から塩野村へ馬耕機を持参することを決意したのでした。
さらに、遠く富山から馬耕機を運んだだけではなく、この新しい機具の指導と普及にも乗り出したのです。
努力のかいあって、馬一頭と農夫一人で田を耕すことができる馬耕機の導入で、この地域の田耕は飛躍的に進歩しました。
 
 

野村の土質に合うように馬耕機の改良も行ったという青木さんは、村人から「先生」と呼ばれ、尊敬されていたと言います。

明治34年、馬耕機導入二年目に青木さんの功績に感謝の意を表すため、村を挙げて「酬恩碑」が建立されました。
その時、青木さんは36歳。式典で地元の人々は、青木さんの地域貢献を称え、心からの深い感謝の気持ちを表したのでした。

後年、村会議員となり、農民運動に身を投じてからは、貧農の救済に私財を投じるなどして、社会福祉事業の面でも活躍しましたが、昭和9年7月28日、69歳で病のため亡くなりました。

配置薬の昭和レトロ堂:報恩碑 白い文字がくっきりと浮かぶ「報恩碑」は高さ110センチ、幅67センチの自然石でできています。
 
 

一人の薬売りがなぜここまで……?

日頃、農民に対する同情と愛情を抱いていた青木さんはまた、新しい思想の持ち主でもありました。
また、初めて東北の一角に足を踏み入れ、重労働にあえぐ農民に接したことが、その決心をうながしたのかもしれません。

さらに、長い歴史の中で富山の売薬さんが培ってきた「無償の奉仕活動」を行うという精神が、青木さんの中には脈々と受け継がれていたと言えるのではないでしょうか。

生まれ故郷富山でも、地元の世話に奔走した世話好きな人だったという青木さん。
現代にはなかなか見ることができなくなった、奉仕の精神を持った奇特な人だったのです。

 
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